上着の招いた縁でウクライナ来訪(30号、2004.12.18発行)
リフネに将棋で日本文化センター設立の可能性
8月、ロシアの学校の夏休みを利用して再びウクライナを訪れ、キエフとリフネの子供たちと再会を果たして来ました。(鈴木良尚)
ところで、私にはどうしても、もう一回ウクライナに行かなくてはならない理由がありました。昨年池谷理事と一緒に訪れた際、リボフ駅で上着を車内に忘れて降りてしまったからです。非常に暑い日だったので全然気が付きませんでした。夕方になって気付きましたが、翌朝早くには空港に行かねばならず、半分あきらめたままクリャチコさんに頼んで駅の忘れ物係りに電話をしてもらったりいろいろ努力して頂いた結果、上着が回収出来て手元に保管中という知らせを受けていたのでした。
その上着は新品でしたので、よくぞ戻ってきてくれたと感激しました。というわけで、上着の受け取りも兼ね、2年連続のウクライナ訪問が実現したのです。
公園での縁台将棋
首都キエフにはロシアのサンクト・ペテルブルグから直行便があり簡単に行けます。運賃は往復6千ルーブル、約2万2千円でした。到着の翌日は土曜日で、ホテルの目の前にあるマリンスキー公園という緑豊かな大きな公園の前でチシェンコさんが5〜6人の子供たちと一緒に待ってくれていました。昨年観光バスに付き合ってもらった顔馴染みのアルテム君とショリック君も居ました。さらにウクライナ・チャンピオンのコロミエッツ三段(40歳)もニコニコ顔で立っていたのです。
<キエフのマリンスキー公園にて、左手前がコロミエッツ三段>
私たちは公園の中を歩いて噴水のかたわらを通り過ぎ、木の四角いテーブルと椅子がたくさん置いてあるコーナーにやってきました。テーブルは少しザラザラしてゴミっぽい感じもしますが、その上にビニールの将棋盤を広げてゲームの開始です。
私は始め小さな男の子と両金で指してから、次に別のテーブルで2面指しを指しました。
涼しい夏の木陰で将棋を指せるなんて久々に良い気分でした。でも、左側の盤が終了して右側の盤だけで戦っている時、左側の盤の上にピチャンと上から鳥の糞が落ちてきました。それでも私たちは少しも騒がず、右側の盤を少しだけ動かして継続しました。戸外で自然を楽しむならこれも有り、といったところで誰も動じませんでした。
翌日の日曜日も同じメンバーと同じ場所で将棋です。この日は始めからショリック君とアンドレイ君との2面指し、アンドレイ君が早く負けると今年の新顔で赤シャツのパヴェル君が入りました。ハンデは嫌いだから平手でと言うのです。一般にチェスの選手はハンデを嫌う風潮がありますが、この子もそのようでした。負けるといかにも悲しそうな顔をして、今にも泣き出しそうなのです。アメリカに住んでいた英語の上手な元気の良い子なのですが、その落差には驚きました。強くなりそうな子です。
武士の情け
私はコロミエッツ三段と昨年キエフでのトーナメントの際、ポカを演じて負けていたので、是非リベンジの対局をと思っていました。ところが初日は、彼が国際将棋フォーラムで来日した時の写真を次から次へと見せてくれ、その時の話をするだけで一向に私と指そうとは言わないのです。
翌日になっても、彼がその時個人戦で戦った相手との棋譜を次から次と紹介してきます。ドイツのミルニク、オーストリアのシュナイダー、アメリカのカウフマン、フランスのシェイモル等々、名うての強豪ぞろいなので、ついこちらも興味を持って質問するうちに夕方になってしまい、とうとうリベンジの機会はやって来ませんでした。どうやら彼が避けたもようでした。
想像するに、�@公園みたいな風の吹きさらしの場所ではやりたくない、�A自分が勝ってしまうと、将棋の先生だなんて言って来ている日本人の顔を衆目の前で潰すことになる、�B逆に自分が負けると今チェス倶楽部で将棋を教えている子供たちの手前これも具合が悪い、以上三つの理由が考えられます。いや、もしかすると�Aだけかしら。
オッケイ
キエフの次は昨年同様リフネ行きでしたが、再びキエフに戻って来た時、コロミエッツさんは今度は一人でホテルに来てくれ、廊下にある椅子とテーブルで対局することが出来ました。やっと機会到来です。
先手のコロミエッツさんは居飛車穴熊。張り切り過ぎの私は向飛車急戦。桂香得で有利と認識していましたが(第1図)、その後チャンスを見逃したり、指した積りの手を指さないで次の手を指してしまったりして、ついにリベンジは不成功に終わりました。こんなに有利で負けるなんて、私も引退の時期を痛感しています。
いやもう69歳ともなればとっくに過ぎているのかも。大体有利だなんて思うのはそもそも第1図の大局観がおかしいんでしょうか。
コロミエッツさんは私が指すと、手の意図を察してオッケイというのが癖です。
「そう来るんですか、オッケイ、それなら私はこう指します」
という意味なのでしょうが、さあ、何でもいらっしゃいという気持ちが表れています。オッケイなんて言ってていいんですか。オッケイじゃあないでしょう、と、こちらが返せれば勝てるんですけどねェ。
リフネ少年宮で指導
リフネ駅に到着すると昨年以来お馴染みの少年宮将棋関係者の面々がホームに出迎えてくれました。通訳のカーチャは18歳になり、夏休みではるばるカザフスタンの中国国境に近いアルマ・アタに住む祖父母のところに行っていたのを呼び戻されて来たとのこと、学校が始まればキエフのドミトリーで生活するわけで、西に東に全く申し訳ありませんでした。
リフネには合計6日間滞在しましたが、前半の3日間は子供たちとの4面指し(予定2時間、実質3時間以上)、それに大盤を使って手筋の講義と棋譜の講評を行いました。4面指しは延べ32人。平手2人、飛香落4人、2枚落5人、4枚落9人、6枚落10人、8枚落2人 です。
<ウクライナのリフネの少年宮で多面指し指導する鈴木理事>
2枚落では手を抜かずに3局負けて結構くたびれました。熱心なお母さんが一緒に来て、子供が悪手を指すたびに「あァー」と溜息をつかれるのには参りました。ちょうどアテネ・オリンピックの期間中で、夜ホテルに帰ってテレビのスイッチを入れるのですが、ついつけっぱなしで眠ってしまうくらい疲れました。
国際トーナメント
後半の3日間はトーナメントでした。ベラルーシ(白ロシア)から2人の選手、セルゲイ・コルチッツキーさん28歳と、アンドレイ・カスパロヴィッチさん36歳がやってきました。
ベラルーシの首都ミンスクに住むこの2人はもともとチェスプレイヤーですが、将棋に転向して破竹の勢い、コルチッツキーさんが今ベラルーシのチャンピオンです。大学でサイエンスを教えているとのこと。将棋と脳の発達についての研究論文を執筆中で、それを軸に1〜2年後に将棋の大キャンペーンを張る計画を持っているとかで大変張り切っていました。
ベラルーシはいまだに共産主義を維持している国で、命令一下学校で将棋を正課にすることが出来る由。アカデミー・オブ・サイエンスにも顔が利くとか、将棋を世界に広める会としては決して見逃す事の出来ない国だということがわかりました。カスパロヴィッチさんと二人でコンビを組んでいるのも強みで、将棋の仲間は確実に増えていくことでしょう。
トーナメントは2日間6ラウンドで持時間各45分、秒読み30秒の条件で52名が参加しましたが、私とコルチッツキーさんとの対局が千日手引き分けとなりました。打開の方策はどちらかというとコルチッツキーさんの方にありましたが、残り時間が私34分コルチッツキーさん8分という大差で、打開に踏み切れなかったとのことでした。結局この2人が無敗で並びましたが、対戦相手の点数計算で、コルチッツキーさんにとっては不運な結果に終わりました。でも、3日目に8分切れ負けのブリッツ・トーナメントがあり、これは私の時間切れ負けとなり、コルチッツキーさん1位という結果で、ベラルーシ・チャンピオンの面目が保たれたのでした。
リフネ近郊のコストピル村少年宮でゲームの指導をしているリトヴィネンコ先生には昨年「羽生の奥義」のロシア語版を差し上げて、益々の将棋の普及と技術の研鑽をお願いしたのですが、今年もトーナメントに参加して頂き昨年より一つ順位を繰り上げ9位に入ったのは立派な成果でした。
一方、昨年キエフから参加して、池谷理事と私の似顔絵を描いて頂いた画家のリャスニャンスカヤさん(愛称黒忍者)は、東部の町の自分の絵の展覧会と日程が重なって再会することが出来ませんでした。
天江大使と意気投合
リフネ少年宮のシェヴチュク先生より、日本(文化)センターを発足させたいという計画を伺いました。最近、日本ブームが沸き起こっており、将棋のトーナメントで15位に入ったイリヤ・パチェコフスキー君は剣道も始めている由。
<奥がリフネ少年宮のシェヴチュク先生>
そこで、キエフに戻ってから日本大使館に足を運び、文化情報担当の専門調査員の別府将史さんに、将棋を世界に広める会の説明とシェヴチュク先生の計画の話をしました。
そして、5分間でも良いから是非大使に御挨拶をと申し入れたところ、天江(アマエ)喜七郎特命全権大使には、突然の訪問にも拘らず快くお会いして頂けました。既に各地にそれぞれ特徴のある日本(文化)センターが発足しており、その最も異色的なところでは相撲が中心なのだそうです。なんでもそこは横綱大鵬のお父さんの出身地だそうです。これでリフネにも将棋を中心とする日本(文化)センターが出来る可能性が高まりました。
さらに来年ISPS設立10周年記念のツアーが来て国際将棋大会が開かれるならば、一個人の資格で是非参加したいと大使は希望を述べられ、話が盛り上がり5分の予定が30分にもなってしまいました。
プレイヤー第一号
「かけはし」第8号(1998)に「ウクライナでの将棋の始まり」という表題でチーシェンコさんのことを紹介しましたが、ウクライナ人で誰が初めて将棋を指したか、という観点からはそれがボリス・コルニーロフさんであるらしいことが判明しました。チーシェンコさんの日本語の先生で、ウクライナがまだソビエト連邦に所属していたころ、日本の情報として唯一手に入る新聞「赤旗」を読んで日本語を勉強するかたわら、囲碁や将棋のコラムで日本のゲームを研究していたとのことでした。当時キエフに駐在していた日本の商社の人と将棋を指し始めたそうです。若い奥様のインナさんは日本語学校の生徒さんの一人だとのことで、これまた日本語が上手、しかも映画女優のような美人でした。
<チシェンコ氏(左)とコルニーロフ夫妻>
私はボリスさんと4枚落ちで指しましたが、角に睨まれてたいへん苦労しました(第2図)。上手が▽1四歩と打ってとりあえず下手の飛車成りを防いだところですが、以下▲4四歩▽同銀▲4五歩▽1五香▲4六飛と進み、ここで上手は▽5五銀右と出て以下▲4八飛▽4七歩▲同飛に上手は▽5六銀と飛車に当てました。そして▲4八飛▽4七歩▲5八飛▽4五銀引となったのが第3図ですが、依然として上手の3三金が角に狙われてピンチが続いています。
下手はやおら▲4六歩で上手▽同銀の他は無く、次には▲4五歩以下▽5五銀上▲5六歩の銀損を覚悟していたら、何と▲4五歩ではなく▲5四飛の王手金取りに来ました。これもきつい手で▽6三王以外に受けは無く、ここで▲4四飛又は▲4四角と二枚替されたらどちらでもオワリと思っていたら▲5一飛成と堅実にきました。でもこうなったら粘りの一手で▽7三桂と駒損を避け、そして次にやっぱり狙いの▲4五歩が来て▽5五銀上となったのですが、下手は次にあくまでも角の睨みを使った▲5六歩ではなく、飛車の活用の方に目が移った▲5三歩だったので、上手の勝負手▽6五桂の余裕が出来てしまい、下手の▲5六歩で5五の動けない銀を取る手順は後から実現はしたものの、時既に遅く上手の殺到を許してしまいました。でも勝ち負けはともかく、ウクライナ人初の将棋プレイヤーとして立派な将棋だったと思います。
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