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座談会 ISPS発足の夢 そして今 (50号、2010年10月9日発行)

理事長 眞田尚裕
理事 鈴木良尚
理事 湯川博士
インタビュアー 松岡信行

―  本日は、ISPS発足のころについて、よく知っている三人の方にお集まりいただき、発足時の様子などを伝えて行きたいと思います。
 では、早速ですが今から15年ほど前、この『将棋を世界に広める会』が発足する1995年頃ですが、海外における将棋普及はどのような状況だったのでしょうか。実態について伺いたいのですが。

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眞田 すでに将棋連盟でも海外普及に取り組んでいて、海外支部は世界に20数箇所はあったのだが、海外の支部は、主に駐在員や日本の商社マンなどが中心で、せいぜい広がって日系人ぐらいなものだった。

湯川 それでも、ヨーロッパにはある程度将棋が根付き始めていた。イギリスにはジョージ・ホッジス氏がいて、ものすごく一生懸命にやっていた。財産をなげうってね。

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鈴木 彼は、将棋を事業にしようとしていた。ロンドンで1976年に『SHOGI』という英文の雑誌第1号を発行している。個人的な ことになるけれど、会社からドイツの駐在を言われていたのが丁度76年だった。せっかく外国に行くのだから、外国で将棋を指したいと思っていたので将棋連 盟に聞きに行ったところ、新宿にいるタウンヒル氏を紹介された。タウンヒル氏に会うと、イギリスのロンドンにジョージ・ホッジスというのがいるから、そこ を訪ねてみろと言う。
 ロンドンで会ってみると、彼は将棋でチェスカフェのようなものを作ろうとしていた。旅行代理店なども用意して、そこに行け ば旅行券なども買え世界中に相手を求めることができるようなものを頭に描いている。日本にも何回も来て将棋連盟と交渉していた。この頃、青野さんや米長さ んもロンドンに行っているんです。当時、ホッジス氏は、勝手にヨーロッパトーナメントなどもやっていました。

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湯川 ホジッス氏はまったく別だった。ヨーロッパの総家元になろうとしていた。彼は一生懸命やっていたのだけど、将棋連盟としては、ただの一支部ならいいけど「外国すべての家元にさせろ」というのだから問題が大きい。結果的には、「とんでもない」と言う話になってしまう。

― 海外でも、将棋を指そう、拡げようという機運みたいなものはあったのですね。

湯川 その頃、アメリカでも連盟を作りつつあった。みんな家元になりたがっていた。

鈴木 私は、ホッジスに会ったり、海外で 将棋を指したりしていたのですが、日本に帰ってきてからも郵便将棋というのをやっていたのです。かけはし1号に書いた国際郵便将棋です。参加チームは東日 本・西日本・イギリス東・イギリス西・オランダ・フランス・ドイツ・アメリカ・イタリア・タイの10チームでした。

―  郵便将棋ですか。お互いの音信を確かめるにはいい方法だとは思いますが、随分と時間がかかるのではないですか。

鈴木 1993年にスタートして、一局終るのに3年かかってしまった。その頃インターネットが出始めてきたものだから、一回で終ってしまった。

湯川 「広める会」ができるころまでには海外でも色々なものがあったが、まとまりは無かった。ホッジス氏にしても、「将棋」に対して あまりに夢中になるものだから、1995の頃は家族を含め周りの者が離れ始めていた。真田さんが出てきたのはホッジス氏の活動の終わりの頃ですよ。

―  それでは、いよいよ、『将棋を世界に広める会』の発足について話を進めて行こうと思います。発足までの動きはいつ頃から始まったのですか。

湯川 僕が眞田さんに会ったのは、94年の頃だった。

眞田 そうそう、湯川さんが家に来たのは、発足の1年ほど前の94年の暮れだった。「将棋を世界に広めるなんて言っているのがいるが、どんな奴なのか会いにきたんだ」と言っていた。

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湯川 当時、週刊将棋に「ヒューマン・ファイリング」というコラムを連載していた。月に二度ほど。丸々、1ページ。写真も載せてね。 講談社の将棋の好きな人が、「あまり本気にしないで欲しいのだが、変わった人が鎌倉にいる。『将棋のオリンピックをやる』と言っているから、会ってみみた らどうでしょう」と言う。これが切っ掛けだった。

眞田 来たら、延々と2時間ぐらいしゃべって帰っていった。

湯川 そうした話しがあると、記事になるかどうか分からなくても行って見ることにしている。鎌倉まで行って空振りすると一日がつぶれ てしまう。なにしろ、この欄は自薦他薦が多いわけだから空振りすると無駄骨になる。思想とかロマンの無い人は、読者にとっては面白くない。かといって実態 が無ければ記事にならない。この辺りを確かめなくてはならないからね。

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鈴木 それが週刊将棋に載りましたね。私にとって眞田さんを知った最初です。

湯川 最初に集まった人たちのほとんどが、この記事を見た人ですよ。単に将棋の支部を作ろうと言うのではなく、もっと規模は大きいからみんなの注目が集まった。

眞田 1995年9月30日のことだったね。最初の会合は。

鈴木 湯川さんが主催している『将棋ペンクラブ』の会合の日。ペンクラブの中で海外普及をしてみたいと言う者8人が昼休みに集まった。

眞田 眞田十勇士に2人足りなかった。

湯川 発足すると言っても、誰がやりたいのか分らないし、特別に会合を開くのもたいへんだから、ペンクラブの会合の日にやろうと言うことになった。交流会の日だったから将棋会館の4階に50人くらい集まっていた。この内の8人が参加した。

―  発足当時、将棋連盟からの援助は受けられたのでしょうか。

眞田 最初連盟に行ったときは、「人と金が無いから、どうぞご自由にやって下さい」と言われた。

湯川 将棋連盟と言う名前を使って何かしようという人がたくさん居たからでしょう。ただ、眞田さんは違っていた。真田さんは将棋連盟を頼る気は無く、自分の力で何とかしようとしていた。

眞田 当時は、将棋連盟にうまいことを言って金を引き出そうと言う人がいたようです。

湯川 眞田さんの話はまったく違って、新しい木を植えましょうということ、オリンピックをやりましょうということだった。これは大法 螺だと思うよ。金集めではないかと思った人もいても仕方がないが、僕は夢を持った人と思った。将棋連盟としては、どうせできっこ無いだろうと思ったと思 う。対象が海外だから誰も本気にしない。当時、海外に普及に行く人はいても、組織を作ろうと言う人はいなかった。

―  創設期で一番苦労したことは何ですか。

眞田 一つは、将棋連盟との関係だね。

湯川 会を立ち上げるまでに何度か会合をひらかなければならないので、連盟に部屋を貸してくれないかと言ったところ、駄目といわれた。

―  将棋会館の中の部屋ですか?

湯川 そのころ、僕は将棋連盟の中に国際将棋部を作った。羽生さんとか森内さんに、「いきなり世界に将棋をと言ったって無理だから、 まずはチェスを覚えた方がいいですよ」と薦めていた。友人のチェス・チャンピオンのピノーさんを師範に頼み、中国象棋とともに将棋連盟の部屋を使わしても らっていた。

―  「広める会」には駄目だと。

湯川 国際将棋部は連盟のクラブ活動の扱いだけれども、こちらはそうではない。そのため立ち上げの会合の部屋代は払った。無料は無理 でも、割り引きの制度はあってもいいような気がした。国際将棋部では、羽生さんと森内さんはチェスが強くなって、所司さんは中国象棋が強くなった。これは 将棋の海外普及にも役立った。

鈴木 確かに当初は、連盟との軋轢はありましたね。将棋連盟としては、状況的には仕方なかった面はあったと思います。

湯川 北京やロシアなどは「広める会」が切り開いたのだけれども、海外の名人戦や竜王戦などを行う上で、この会のことはあまり触れられていない。報道する方にも問題がある。

鈴木 将棋連盟も海外普及は大切だとは知っていても、簡単にはできないところだった。

―  連盟としては、「今からやろうと思っているところだから、あまり動かないでくれ」、という面があったのでしょうか。

眞田 困ったとか、つらかったというのはそういうことです。

鈴木 我々としては、「使ってくれ」という意味なのだけれども。連盟にうまいことを言って金を引き出そうと言う人がいたような状況で すから、連盟としても無理もなかったと思います。また、海外普及と言っても、当時の連盟の中には大野木さん以外に英語を話せる人はいなかった。どうにもな らなかったのではないでしょうか。最近は普及部の人数も増えたようですが。

― 会員を集めるのにはどうしたのですか。

湯川 会員を集める時に、実際に海外に行ったことがある人だけを集めたら2、30人で止まってしまうから、海外に行ったことが無くても語学ができなくてもいいから、志のある人を募っていくよう提案した。

眞田 やがて300人ぐらい集まった。

-  300人とは凄いですね。

湯川 「会」を作る時には、どのような人でも入れる会にすることが大切で、制限を加えはじめると、すぐに会員はいなくなってしまう。

眞田 一時は減ったけれども、最近また増え始めている。

湯川 引止め役を務めたこともある。組織を作り運営するというのは、結局、「金」とか「人間」のことなんですよ。何かに感動しただけでは続かない。

―  会の運営として、苦労したことは何でしょうか。やはり、お金とか人間関係のことなのでしょうか。

鈴木 確かにその面はあります。一番印象に残っているのは中国に行った時です。色々なつてを辿って中国にも将棋を指す人たちを見つ け、少年宮の李民生先生を紹介された。帰る時に、李先生から「日本に子供たちを呼んでくれ」という話が出てきた。お金はかかるしどうしたら、と思って眞田 さんに相談したところ、是非やろうではないかと言ってくれた。これは嬉しかったですね。二年後に実現しました。

眞田 97年でした。これが具体的な交流の始まりですね。三人、中国から呼んだのです。

鈴木 これは苦労しました。お金が無いものだから、湯川さんがあちこちに宣伝記事を載せたり資金を募ったわけです。新聞社やロータ リークラブなどに頼んで資金をかき集めた。ところが、中々ビザが下りない。ロータリークラブの話が立ち消えになる。資金的に不安になる。本当に来るかどう か分らない。なにしろ、やっとビザが出たのは、正に直前、来日の二日前です。終ったときは本当にほっとしました。

湯川 資金繰りに苦しくなったとき、僕は、理事とか会長が資金を出してはいけないと言った。多くの団体を運営してきた経験から、資金を出した人が団体を私物化してくるなど問題が生じてくることを知っていましたから。

眞田 お金の苦労はたくさんあります。中国から人を呼んだ時に、会計が80万円狂っていたことがあるんですよ。「80万出せますよ」 というところを、翻訳された中国語では「80万円上げますよ」となっていた。だから、中国側は来日するまで80万円もらえるものと思っていた。このほかお 金に絡む問題は数多くありました。本を訳す時のトラブルなど。そのほかでは、こちらでは「メンバー5人」と聞いて準備していたら、空港に現われたのは12 人だったとか。
湯川 一番苦労するのは、どの会でも「お金」と「スタッフ」なんです。組織を運営するには、この二つの問題はいつもつきまとう。

―  海外への普及を兼ねて、「・・の旅」と言うのを何回かやっていますね。

鈴木 そう、中国に3回くらい。ロシア・ウクライナ・スウェーデン・・・随分とやっていますね。

眞田 原田泰夫九段には大変お世話になったのですが、途中までは、全然こちらに振り向いてくれなかった。『かけはし』を送っていたの だが、どうも見てくれていなかったらしい。ある日突然見たのだな。そしたら「これは好い」と言って、それ以後、会に力を入れてくれるようになった。

湯川 原田先生は、外国へ羽織はかまで下駄を履いていった。観光客の注目を浴びる。中国やロシアではムービーで写真を撮っている人もいた。日本の侍が来たなんて言いながら。

眞田 ギャラなしで行ってくれた。

鈴木 先生は、これは良いと思ったら「ただ」で、これは仕事だと思ったら「請求する」という人だった。「ただ」か「10万」かだ、という言い方だった。

湯川 最近、旅行はどうなっていますか。

鈴木 今、旅行はあまり行っていませんね。ドイツとかフランスとか行くべきところはたくさんあるとは思いますが。行く人が、皆、お年寄りになってしまう。若い人は10日間も休めませんしね。

湯川 旅行を組むとなると、20人くらい居ないとね。

眞田 「人を呼ぶ」ことについては、今年は、モンゴル、北京、広州、銀川などを呼んでいるんですよ。ですが、人的交流を実施して多くのお金をかけるより、インターネットでという傾向はあります。

湯川 インターネットは随分と進んでいるようですね。

鈴木 インターネットが盛んになり、多くの人に伝えるというのはいい事ですが、一人の人物を捕まえることも重要ですね。やはり顔を合 わさないと人間的に親しくならないのですよ。その後、メールなどのやり取りの中で関係を深めていくと、素晴らしい成果が上がってくることを実感していま す。インターネットと両輪で進んで行くのがいいと思いますね。

眞田 交流というのは一回限りで行ったり来たりしても駄目なんです。本当の普及というものは、継続的なものが必要です。これをどうやって結びつけるかという問題があります。

湯川 これからは何十人の団体で行くのは不可能だから、4・5人のグループでの相互の交流が大事になってくる。例えば、ホテルに泊まるのではなく、ホームステイを計画するとか。交流の密度が重要でしょう。

眞田 ホームステイを計画するなどと言うのはいい方法かと思う。決して将棋だけではなくて、他の多くのものを持ち帰って行く。そこに深い繋がりが生じ、一時的ではない安定した普及が生まれてくると思う。鈴木さんの言うように、インターネットと両輪で進んで行きたいですね。

―  発足当時の様子もよく分かりましたし、今後の方向性も出てきたようです。最近の海外普及の発展の状況は、当初、『眞田理事長の法螺』と 思われていた《将棋のオリンピック》も現実性を帯びてきていることをお伝えして、座談会を締めさせて頂きたいと思います。本日はどうもありがとうございま した。

追悼:
座談会で名前の挙がっている、イギリスのジョージ・ホッジス氏が本年8月3日にご逝去され、16日に葬儀が執り行われました。

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