国際郵便将棋、その後-8ヶ国・10チーム団体対抗戦(11号,1999,11,16)
〜駒落でも、東、西日本チーム1、2位〜
「かけはし」創刊号で、途中経過をご紹介した国際郵便将棋・8ケ国・10チーム団体対抗戦の結果は、別表のように、東、西日本チームが1、2位を占めるという結果で幕が降りました。(鈴木良尚)
1993年の春から1995年の末まで3年間が当初の予定でしたが、開始がスムースにいかず、1996年の末まで1年間の延長は当然の成り行きでした。しかし、それでも未完の試合が多く残ったので更に1年間延長し、結局1997年末までの5年間の熱戦となりました。
1998年に入ってなお、特別延長の認められた試合もあったり(どちらかが、あと10手位で投了しそうな場合、なるべく途中判定で勝負をつけることのないように、試合を終了させたいという考え)、試合未完の場合は棋譜を元に判定を行わなければならいところ、その棋譜の提出が意外に遅く、判定が進まない部分が残りました。また、トーナメント・ディレクターとして各種トラブルの裁定をして頂いた、アメリカのビクトル・コントスキーさんの大切な御家族に不幸が起こり、1998年の夏頃にしばらく空白の時間が避けられず、結局、全成績を確定するのにトーナメント打切りから1年もかかってしまい、公式発表は1999年の1月ということになりました。
試合は8ケ国10チームで、各チーム5人の正選手に1番から5番まで番号をつけ、指定された相手6チームの同番号の選手と対戦する、という組合せで行われました。但し、5人以上の選手を登録したチームでは、、正選手1人6試合の代わりに、追加登録選手が適宜交代して入ることが出来、従って、正選手1人当たりは4〜5試合でよいことになりました。参加登録選手は別表のごとく全62名でした。登録選手の数はアメリカ・チームが最も多くて9名、日本チームは東日本、西日本共にそれぞれ7名でした。日本の選手は「週刊将棋」に出した広告(1992年2月5日号)を見て応募して来られた方々が大部分です。英語で書く棋譜の書き方も初めてという選手には、それを解説した紙をお配りして勉強して頂きました。タイの選手は全員現地に在住していた日本人で、またアメリカ・チームにも1人ニューヨーク在住の日本の方が第1番席で参加されました。
対戦組み合わせについては、参加登録選手の大体の強さを順に並べ、なるべく強いチームどうし、弱いチームどうしが当たるように、また、1ケ国で2チーム出しているところは、同じ国のチームどうしが当たらないように、という配慮がなされました。強い弱いといっても、PSL(注)の基準による一定の駒落ちで指すわけですから、個々の対局はすべてバランスしている筈ではあります。PSLの会員は既にレーティングの点数を有していますが、初参加の選手は点数がありませんので、自己申告の段級位をPSLのレーティングに照合して点数を与えその点数差で個人的な手合い割りを決めました。その結果、日本の2チームの選手に関しては、ほぼ3分の2の試合が、駒落ちの上手で対戦することになりました。香落、角落、飛車落、2枚落、4枚落、と様々です。しかし、逆に香落下手という組合せも出来ていました。
5人の選手が相手6チームの選手と戦うわけですから、1チームの試合数は30試合で、トーナメント全体では150試合が行われることになります。1997年の年末の時点で、なお勝敗のついていない試合が34試合残っていました。冒頭にも書きましたが、あと少しで勝負がつきそうな試合については1998年に入ってなお延長を認め、その他の試合は棋譜を提出してもらった上で、プロ棋士による判定で勝ち負け、或いは引き分けかを決めることになっていました。しかし、34局もの試合を判定するのは、プロ棋士の負担が大きすぎるので、トーナメント・ディレクターの指示により,日本チームの関与しない試合については、著者が判定することになりました。判定の基準としては、原則として引き分けとし、よほど差のある場合のみ勝敗を決めるという基準でしたが、結局棋譜が提出されたのは10局に満たず、そのうち日本チームの関与する分は3局で、この分についてだけ室岡克彦六段に判定をお願いしました。残りの試合は、打切りの時点で棋譜を提出せずに片方がギブアップした試合が幾つかあり、その他は、棋譜の提出未了を以て選手同志が勝負を決める意思なきものとみなし、引き分けとして処理しました。
成績の順位は、団体戦スタート時に、各チームの勝数によってそれを決めるという規定を実は作っていたとの事で、勝率のよいドイツ・チーム (.789) より、勝率は低いが(.759)勝数の多い東日本チームの優勝ということになりました。チェスの試合では、勝数を1点、引き分けを 0.5点として、点数を競う方法が一般的ですが、今回は未完の試合を引き分けにしましたので、それで点数が取れるというのでは不合理ですからチェス方式を採用しないで良かったと思います。
日本チームの成績は別表2のごとくです。日本選手の個人成績では、東日本チームの高橋、神田、鈴木の3名、及び西日本チームの岸田、中山が負け無しの好成績でした。日本チームが強いのは当然ではないか、と思われるかも知れませんが、駒落ちのハンデをつけていますので必ずしもそうはいかないのです。私が思うのは日本チームの出場者に忍耐強くて精緻な人が多かった、という性格的な勝利です。郵便将棋は長期にわたり細々と(表現が悪くてすみません)切れ目無く続けるものなので、よほど情熱を長く維持出来ないと、途中でダレて来ていい加減になって来ます。実際にあったケースでも、スタートしたものの途中で気力を失ってやめてしまうとか、参加登録はしたもののスタート以前にやっぱり止めたとギブアップを表明し、代わりの選手を探したが見つからなかった(外国の例)とか、理由は様々ですが、選手の性格的な面が郵便将棋の場合は特に勝敗に影響を与えます。平均して1チームに1名は脱落者が出て普通です。(今回オランダ・チームの不成績は脱落者3名に及んだためです。)今、全チーム5人のうち各1人が脱落したとすると、20〜40%の試合が没収試合(不戦勝)や放棄試合(不戦敗)になります。もし、それが各2名になると実に40〜80%がそうなる計算です。第3表でもそれが結構多く見られています。即ち、没収試合(□)や放棄試合(■)が日本の2チーム合わせて60試合中28試合と、半分近くあることからもよくわかります。トーナメント・ディレクターのコントスキーさんは国際郵便チェスの元チャンピオンですが、郵便チェスの場合でもこのようなことは数多くあり、特に今回将棋の場合に多過ぎるということではない、とのお話でした。また、どんな相手と組合わさったかでも運不運があります。例えば、手紙の返事がすぐ来なかったり、ムラのある相手に当たった場合、真面目に将棋を指す意志があるのかどうか疑いたくなって、つい自分の方までヤル気をなくすようなこともあります。
あまりにも短手数で終わった将棋には、見落としによるものが多くあります。そうでなくても不慣れな書き間違い(桂馬のつもりでナイトの頭文字Kを書いてしまい、キングと受け取られて玉がヘンな方向に1手動いてしまった)とか、或いは、王手をついウッカリして防がなかったので反則負けになったとか、一旦手紙に書いてしまったらもはや訂正出来ない、という郵便将棋独特のルールも成績に大きな影響を与えたようです。このようなことは、将棋を楽しむのか、それとも勝負をつける事に力点をおいているのか、によってルールの作り方が変わるということです。今回はそういう意味でやや中途半端であったかも知れません。外国チームどうしの試合で、片方がルールを悪用し、いつも相手から催促があるまで返事を出さずに相手をイライラさせたり、或いは少し不利になると不利が拡大しないように急に進行を遅くしたり、というようなトラブルが生じたように聞いています。日本の選手の場合は、皆さん余裕があって、どちらかというと勝負よりも将棋を楽しみたいと考えていたのではないでしょうか。或る選手の場合、相手は将棋が好きで将棋を指しているのではなく、日本に旅行に行きたいがために単に日本に拠点を作ろうとしているのではないか、と疑いたくなるような態度がみられ、文通をやめたくなって途中で投了したという報告を受けました。相手にめぐまれないと郵便将棋もなかなか楽しむことが出来ません。
そういう中から、150手を越す熱戦を4年5年と続けて勝敗を争った試合も散見され、相手に恵まれたとはいえ、大いにプレイを楽しむことが出来たことは大変喜ばしいことでした。また、せっかく信頼出来る相手だったのに、病気になって入院してしまい、残念なことに亡くなってしまった、という悲劇も1件起こり、何年もかかるような将棋をさしていると、諸行無常の世の中の移り変わりまで感じさせられます。
なお、チーム成績としての勝ち星の数は、相手が試合を放棄して勝ったのか(第3表の□印)、それとも実際に将棋を指した上で相手を投了に追い込んで勝ったのか(同じく○印)を、区別せずに同等に取扱っています。しかし、私としては、0〜20手以内の放棄による勝は1点、それ以上指して勝った時は投了でも放棄でも2点、と区別したらどうかと考えています。勝ち星の価値が違うように思えるのですが、始めにそのようなルールにしていなかったので、この際そういう区別はしていません。
外国の選手の中では、フランス・チームの Hall、Tran の両選手が共に5勝1引分の好成績でしたが、○印の勝は共に3個です。それよりもドイツ・チームの R,Soelter 選手の4勝2引分という成績は、○印の勝4個によるもので賞賛に値します。どなたか挑戦してみる方はいませんか?(勿論、公正な駒落ちで)
それから、この8ケ国による団体戦はイギリスのPSL(Postal Shogi League)組織の管理下で行われましたが、その組織の長である P.Holland 会長は、自らイギリス西部チームの一員として参加して3勝3敗の成績を残しました。
さて、これで国際親善を旨とした第1回の国際郵便将棋の団体戦は終了しましたが、ここ数年の間に急速に広まったパソコン通信による、いわゆるEメール将棋が今や古いポスタル将棋に取って変わろうとしています。第2回の団体戦を企画するに当たっては、郵便だけで何年もかかるやり方が果たして成功するかどうか疑問に思えてきました。個人間での郵便の遣り取りは、当事者が2人だけなので処理し易いのですが、団体戦ともなると何人も参画している中のたった1局が終わらなくても全体が終わることが出来ず、無駄な時間が多すぎます。それに引換え、Eメールでは通信時間が格段に速いだけでなく、発信時刻が明瞭で、翌々日付けの返事を義務付ければ(これを越える場合は、各自持ち時間30日の中で処理する等)時間切れ負けもハッキリして、試合の進行がダラダラせず管理し易くなります。どうやら、個人戦はともかく団体戦に関する限り郵便の時代はもはや過ぎ去ったのではないでしょうか。そうなると今回の団体戦は最初で最後という貴重なデータになるわけです。 かけはし次号から日本選手の戦いの跡を御紹介していきます。紙面の都合で全棋譜の紹介が出来ないのは残念ですが、見応えのある攻防が随所に見られますので、一度並べてみて下さい。
注:Postal Shogi League,世界的に会員どうしの郵便将棋を斡旋している。最近ではEメール可能な会員も増えてきた。詳細は「かけはし」創刊号参照のこと。興味のある方は、お申し出いただければ、その部分のコピーをお送り致します。
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