ウクライナ将棋旅日記(25号、2003.9.27)
かってのソ連邦構成国のウクライナ。ここでも日本の将棋の愛好家が増えつつあります。現状を把握し、一層の発展の方策を探る為に出かける事にしました。スリムな副理事長の鈴木さんとチビで小太りの私。ドンキホーテとサンチョパンサ現代版の二人づれの出発です。(池谷孰)
<待機戦術>
8月15日(金)
アエロフロート機が定刻12時に成田を発ちこれも定刻の17時過ぎにモスクワに到着。日本との時差は5時間。ゆれもなく極めて順調なスタート。ところが乗り継ぎの部屋に行ったが待てど暮らせど案内がない。時たま現れる職員に聞いても、「ウエイト!」と言うだけ。こちとらは訓練を受けている犬ではないんだぞ。
だが、こちらはロシア語は話せず、あちらさんは英語が話せない。仕方がないか。ロシア語をすこしご存知の鈴木さんに挨拶の言葉を教えてもらう。
「ありがとう」は「スパシーボ」。
スパは英語で温泉。「温泉思慕」と覚えておこう。「さよなら」は「ダスビダーニャ」。これは「ナスビじゃないの」にしておこう。
ようやく国内線の空港にバスで移る。ウクライナは国内扱い。ところが出発便の表示がまったく無い。出口を旅客が出て行くたびに行くと、「待て!」「待て!」の繰り返し。二人は何度も犬になる。5時間半ほど待ってようやくキエフ行きアエロフロートに搭乗。ホテルキエフに着いたのは夜の2時頃。日本との時差が6時間なので徹夜した感じ。ホテルでトランクを開けたら物色された跡があった。モスクワでやられた様子。子供たちへのお土産のボールペンが3本だけなくなっていた。ご丁寧に将棋の駒の箱に、試し書きの跡があった。
8月16日(土)快晴
時差でほとんど眠れず。11時にウイクトル・チセンコ氏(55歳)にホテルに来てもらう。日本将棋連盟の第1回国際将棋フォーラム以来の再会。ホテル周辺を散策。乾燥していてさわやか。ホテルの前は大きな公園。30メートルはあろうかという大木の林。その先の国会議事堂・内閣の建物・サッカー場などを見る。地下鉄の入り口を覗くと体重計を置いて計るのを商売にしているおばさんがいた。10時過ぎに打ち上げ花火。日本と違ってすぐに終わった。日本は贅沢と思った。ホテルの浴槽は大きく、熱いお湯がとうとうと出るので良かった。朝晩入浴し旅の疲れを癒す。出発前に左足にしびれが出始め、「阪神フアン片足しびれてハンシンフアン」などとダジャレていたが、お陰でしびれが影をひそめた。
<将棋クラブ>
8月17日(日)晴
チセンコ氏9時半ホテル出迎え。歩いて15分の将棋クラブに行く。18人いた。うち7名がリフネから来てくれていた。ウクライナチャンピオンのアルテム・コロミエツ氏(38歳三段)が審判長を務めてくれた。同氏の指示に従い私はまずアンドレイ・クラベッツ君(12歳)と対局。
色の白い品の良い少年。耳が大きかった。善戦した。負けて悔しそうな表情。強くなるだろう。次いで対戦したのは身長2メートル以上の髭面のウラジミール・ラティシェフスキー氏(35歳)。序盤の棋譜を取りまじめに研究している様子。幸先良く2勝したが後がいけない。
コロミエツ三段には順当負け。
リフネ市の指導者のウイクトル・シェブチュック氏には序盤で飛車に只で成られてしまいどうにもならなかった。ついでセルジー・マリノフスキー君(16歳)にも負けてしまった。対局参加者16人中9位。中庸は徳の至り、大いに国際親善を果たしたと言うべきか。
鈴木四段は如何かというと、コロミエツ三段には勝利を贈呈されたが、大ポカを演じたための由。
鈴木さんによれば第1図▲6五桂を跳ねた時△6四歩と打ってくれると甘く見ていたところ△6八歩と打たれ、と金作りを見せられて、何を小癪な完封勝ちにしてやろうと、何も考えずに▲7九飛と引いたからたまらない。たちまち△9五歩と突かれて事件になってしまったとのこと。
公平に見て先手の6六銀が4八とか3九にいないと開戦すべきではなかったとか。それでも他の3局は順当に勝ち、最終局は持ち時間を残しながら大会の方の時間切れで引き分け。
負けの無い局面で2位になるところが3位になってしまった。クラブのアリストフ氏が準備してくれた賞品の授与があり、我々はクリスマスのローソクを貰った。
4時半クラブを出た。ホテルの部屋で一休み。薄紫に暮れて行く黄昏の空が美しかった。
8月18日(月)晴
チセンコ氏の出迎えで将棋クラブに出かけたが昨日アリストフ氏がカギを部屋に入れたまま扉を閉めてしまいすぐには開けられないとの事。アリストフ氏の車でキエフ大学の前のシェブチェンコ公園に向かった。
公園の中に常設のテーブルがたくさん並んでいて、市民がチェスなどのゲームを楽しんでいた。時々見に来る人がいた。アルテム・グレチカ君(14歳)に即詰めを逃して逆転負け。馬鹿だね、本当に。6級と言っていたが2級をあげたい。次いでアンドレイ・オチリメツ君(18歳)と対戦。2級と言っていたが勝たせてもらった。残念そう。それから私はチセンコ氏に案内してもらい、大学の向かいにある美術館に行った。
200年ほど前のロシア貴族の肖像画と150年ほど前の風景画。いずれも見事な写実力に感服。どの部屋にも貫禄充分の年配の婦人が見張り番をしていた。鈴木さんは将棋を続け6勝。2時頃に一同と別れてチセンコ氏と公園内のレストランで軽食。赤かぶスープの赤い色にびっくり。味は良かった。地下鉄でホテルに戻る。50カペイカ、約12円。エスカレーターの速いのとあまりにも深いのに驚く。戦時の対応との事。地下鉄も速い。
8月19日(火)晴
チセンコ氏の手配でアルテム・グレチカ君とアレクシー・ショリク君(13歳)が10時半にホテルに迎えに来てくれた。タクシーで鉄道の駅に行く。35グリブナ(約7ドル)。12時45分発の市内観光バスの切符を買う。一人約2ドル。タクシーは割高の様子。目抜き通りで音楽のテープを探す。観光バスは広場の銅像・由緒ある教会や建物の説明をしながら市内を巡回。説明はウクライナ語とロシア語。隣のアレクシー君が英訳してくれる。その合間を縫って教育制度を聞いた。6〜7歳で小学校入学。4年間で卒業。優秀だと3年で卒業出来る。中学は5年間。このあと5年の専門学校に行くコースと2年の高校を出た後5年の大学に行くコース別れる。9月から新学年が始まる。フロロフスキー修道院でバスを降り軍隊の展示広場で大砲や戦車の展示を見る。高台になっていて、眼下にドゥニプロ川(ドニエプルと習った記憶がある)が豊かに流れている。
川の向こうは振興のベッドタウンで高層マンション群が見える。地下街で鈴木さんが探していた、ウクライナで皆が知っているユーモラスな歌のテープがやっと見つかる。いずれ鈴木さん得意の現地語で歌う歌のレパートリーの一つになるだろう。3時半地下街で軽食。ホテルに戻る。
<國際特急列車>
8月20日(水)薄曇
12時25分キエフ発、6時45分リフネ着のポーランド・ワルシャワ行きの國際特急列車に乗る。6人部屋。ウクライナのおばあさんと孫でベラルーシのミンスクに住んでいる20歳と14歳の兄・妹と同室になる。列車は大平原を西へ西へとひた走る。地平線の果てまでトウモロコシ畑が続く。牛がいる。馬がいる。アヒルが見える。安野光雅ののどかな水彩画の世界が果てしなく続く。2時半頃昼食。食堂車でホットドッグやピロシキそれにソフトドリンクを買ってくる。同室の3人に勧めたが遠慮してなかなか受け取らない。ようやく受け取ってくれた後、向こうからは持参のパンやブドウが出てきた。すっかり打ち解けおばあさんは自分のパスポートを見せた。私と同い年の69歳。電気技師だったとの事。黒海沿岸のオデッサで泳いできたと皆日焼けしていて、黒海のちいさな貝殻を貰った。
鈴木さんが覚えようとしているユーモラスな歌の歌詞を聞いた。おばあさんと孫の妹が歌詞を書こうとするのだがなかなかうまく行かない。ついに大学生の兄さんの登場。月曜から一週間の歌で繰り返す歌詞があると整然と書き始める。書き終わったところで妹が名誉挽回と綺麗な声でベラルーシの歌を歌ってくれた。そこで鈴木さん得意のロシア語の歌を披露。では私めも歌わなくては。タイガースが今期は破竹の勢いなることを説明し、歌ったのは、そうです、「六甲おろし」。私は戦後のプロ野球再開以来のタイガースフアンなのであります。
かくしてワルシャワ行きの國際特急列車に「六甲おろし」が響き渡ったのでありました。列車は定刻にリフネに到着。なおリフネはロシア語ではロブノ。皆さんのお持ちの地図ではロブノになっているかも知れません。ウイクトル・シェブチュック氏とユリイ・エロシキン氏の出迎えを受けホテルでスケジュールの打ち合わせ。きちんと日程表を印刷して持ってきてくれた。感激。22日(金)午後にマスコミのインタビューが予定されていた。急遽鈴木さんが理事長に連絡を取り将棋とISPSの英文説明資料をホテルにFAXして貰うよう依頼した。
<ゲームクラブ訪問>
8月21日(木)曇後晴
9時45分シェブチュック氏にホテルに迎えに来て貰う。まずゲームクラブを訪問。ここで子供たちが将棋始め様々なゲームを楽しんでいる。遊びではなく頭脳のトレーニングという感覚である。ゲームクラブは少年宮に属しているが、場所は少年宮の中ではなく近くに独立している。将棋の駒をプラスチックの板に両面印刷して作っているのを見て感激。なかなか立派な印刷。見本の贈呈を受ける。この後リフネ市内を案内してもらう。青空市に大勢の人出。衣類の店が多かった。ここにも立派な教会がある。友人から頼まれたウクライナ紙幣のピン札を2軒目の銀行で手に入れる。石の小粒を貼り付けて作った絵画を購入。
12時少年宮を訪問。理事長のイリーナ・アレクサンドロフナさんに挨拶。堂々たる体格の婦人。挨拶に慣れておられるのだろう。立て板に水の趣。リフネをヨーロッパのゲームの中心地にしたいとの意欲満々の挨拶であった。2時から5時まで17名の子供たちとの自由対局。鈴木さんは平手と2枚落ちの4面指し。私は2枚落ちの2面指しで勘弁して貰った。鈴木さんは10勝1敗。実は筋の良い子に勝ちを一つ譲った。
私は7勝1敗。1敗は2枚落ちが格違いであったと思う。ドミトロ・ロパトック君(11歳)に勝ったがなかなか強かった。後は次々と指して名前を控える余裕がなかった。2人が2局指した勘定。折よく6時から8時過ぎまで少年宮で民族舞踊音楽祭。出場国はブルガリア・デンマーク・マケドニア・モルドバ・ロシア・スロベニアそして最後にウクライナ。美しい民族衣装で踊り歌う。楽しく貴重な体験。誠にラッキー。
8月22日(金)晴
朝ホテルで眞田理事長にFAXして貰った将棋とISPSに関する英文資料を受け取る。9時半から組み合わせ、ルールの説明。持ち時間40分、以後30秒の秒読み。タイマーは中国製。なかなか立派。ここでも躍進中国を感じる。
大会参加者は33名。ちゃんと胸に付ける名札が用意されている。感激。10時から1回戦。一時半から2回戦。4時からマスコミのインタビュー。4時半から3回戦。鈴木さんは3局いずれも順当勝ち。私は初戦シェブチュック先生と当てられ、キエフでの雪辱ならず、また負けてしまった。次いで対戦したのは、はるばるロシアのサンクトペテルブルグからやって来たダニール・クリン君。2年前にサンクトペテル大を卒業してこの9月から同市の日本文化会館に勤務する由。日本語がかなり話せて英語は流暢。後のマスコミのインタビューで我々の英語をロシア語に訳してくれた。長身で品の良い好男子。モスクワでトランクを開けられたことを話したら、レベルの低い兵隊がやることで仕方がないと言っていた。将棋はまだ強くなかった。紙の盤しかないのでプラスチックの盤が欲しいと頼まれ、送付を約束した。
<優しい黒忍者>
3局目の対戦相手はキエフから来てくれたウイクトラ・リャスニャンスカヤさん。本職は画家。鈴木さんの資料によると芳紀まさに28歳。小柄だががっちりしていてやわらちゃんの様。ところが服装は上から下まで黒ずくめ。ズッシリと重そうな大きなバッグも黒。そこで「黒ニンジャ」の愛称を謹呈。そもそもニンジャは黒ずくめかな。この黒忍者、なかなか心優しく、バッグには子供たちへの賞品のチョコレートがぎっしり詰まっていた。
我々はモスクワ空港を無事通過したボールペンを提供。対戦して驚いた。この黒忍者、ナント藤井システムで整然と攻めてくるではないか。飛車を切って角と換えざるを得なくなり大苦戦。もみ合いの後、目から火の出る王手竜取りの角を打ってやっと逆転。負けが決ると凄く残念そう。しかし深々と頭を下げてくれた。この人もきっと強くなる。
リャスニャンスカヤさんはウクライナ将棋連盟の会長さん。欧州将棋連盟に対応する為に3年前に連盟を作ったが現在休眠中で2年後には改選予定と言っていた。今後の活動に期待したい。因みに現在ウクライナで将棋の盛んな都市はキエフとリフネ。次いでリビフとオデッサ。さらにハリコフとニコラエフとのこと。
2局目と3局目の間にマスコミに対応。取材は新聞社3社。「リフネ・フェチルネ」「オゴ」「シム・ドゥニール」いずれも発行部数は25,000と。鈴木さんがまず将棋について、次いでISPSについて説明。時々私が合いの手で繋ぐ。
そうこうしているとこちらにも来てくれと呼ばれる。テレビ局「リフネ・ワン」。テレビカメラの前に立つ。「負けると悔しくないか。」と私に聞く。こいつめ、私が弱くて時々負けるのを知っているのか。
「勝つともちろんうれしい。しかし負けても国際親善に寄与しているのだからやはりハピー。」などと苦しい切り返しで応じた。
コンピューター専門家のエロシキン氏は対局には参加せず、持ち込んだノートパソコンで対局結果の整理。対局が終わると即座に結果表が出来る。またまた感激。
<日本ファン>
8月23日(土)晴
10時から第4局、1時半から第5局。セルフィー・マリノフスキー君には順当勝ち。しかしシェブチュック先生の長男のミハイロ君(18歳以下のウクライナ囲碁チャンピオン)に負けてしまった。終盤何とか盛り返そうと紛れの手を指し続けたが、間違いのない対応を続けられた。それで私は33名中6位になってしまった。鈴木さんはもちろん全勝優勝。シェブチュック親子のどちらかに勝っていたら私も2位の目があったのに残念。しかし日本人にも勝てると大いにやる気を起こさせたのでは?と、思っておきましょう。リフネの郊外のコストピル村から来た子供のお父さんからは、日本の詩の本が欲しいと頼まれ送付を約束した。キエフのチセンコ氏もそうだが、ここにも日本文化にあこがれている人がいる。
コストピル村からはもともとは英語の先生だが、今は少年宮でゲームの指導をしているというエドワルド・リトヴィネンコ氏も来ていて8級で参加。10位に入った。この人にはこれから初心者向けの資料を送ろう。それから鈴木さんの将棋講座。対局の中から先方の希望の対局を解説。
私はNHK将棋講座8月号の勝又五段の「これがプロの手だ」から一場面を選び次の手を当てて貰う。最後に正解が出て拍手。持参した手作りの紙の大盤と裏にマグネットを貼った紙の駒が役に立った。それから表彰式。優勝の鈴木さんも私も、同じ大きなウクライナのチョコレートの箱を貰う。
それにリャスニャンスカヤさんから顔のスケッチを貰う。彼女も対局をしていたのに何時の間に我々を描いたのだろう。生き写しとはこの事。実に見事。それから二人は別室に招かれた。思いがけず夕食が準備されていた。シェブチュック夫妻とエロシキン夫妻に5歳くらいの男の子が同席。食事は両夫人作ってくれたとの事。
シェブチュック先生まず西瓜を取る。ヤ、ヤ!と思ったが我々も従う。次はケーキ。ヤ、ヤやのヤ!!先生甘いもの好きの様子。こちらも甘党なのでこれに従った。しかしさすがに手順前後であった。ウクライナはソ連時代にロシアに食糧を収奪されていた時期がありそれで満腹感を得る為に甘いものから食べる習慣が出来たのかななどと想像した。
いずれにせよ思わぬ心の篭ったおもてなしを有難く思った。このあと少年宮のマネージャー、イヴァン・クリャチコ氏から申し出を受けていた郊外のホテル施設に案内して貰う。先方は次は大勢での来訪を望んでおり、それには現在のリフネのホテルでは貧弱と気にしていた様子。帰りが遅くなるのは気になったが、折角の申し出なので見学に行く。片道約45分。休暇をゆっくり過ごす施設でさすがに立派なホテルであった。また新しい大型バスも持っており、キエフ往復も引き受けると言っていた。
<女性ガイドと観光>
8月24日(日)小雨後曇
7時シェブチュック氏と17歳の通訳エカテリーナ・ヴォズネツカさん(愛称カーチャ)がホテルに迎えに来てくれ駅に向かう。駅で少年宮のマネージャー、イヴァン・クリャチコ氏が合流。観光のお勧めのリヴィフ市に向かう。4時間。その間シェブチュック先生からハンディキャップの付け方やどうすれば強くなれるかの質問が出る。
何局も指す事・詰め将棋を解く事・プロの指し手を研究する事が大事でその比率はレベルによって変わってくると鈴木さんが答える。アンドレイ・クラベッツ君は12歳以下の碁のチンピオンで将棋はまだ40局ぐらいしか指していない、将来有望との話も出た。今度来る時は子供を連れてきて欲しいとの要望もあった。汽車の切符代を払うと申し出たら、少年宮で手配したので心配要らぬとのこと。有難くお受けする。
立派なホテルに入り、昨晩のお返しに昼食にお招きする。ところがグループの観光客の昼食とも重なり、なかなか料理が出て来ず、観光の通訳を待たせるのではないかとやきもき。デザートの注文をあきらめようやく間に合わせる。
案内は流暢な英語を話す女性。昔栄えた街と見えて立派な建物や教会が多い。独立記念日との事で大勢の人出があり、道路はんどが歩行者天国になっていた。子供たちが小さな電気自動車を楽しそうに乗り回していた。広場にはたくさんの店が出ていて、小さな水彩画の額やユーモラスな粘土の民族衣装の人の額、それに細かい刺繍のテーブルセンターを買った。
すべての建物の間口が窓3つ分になっているが、一軒だけギリシャからやってきてブドウ酒を扱い大金持ちになった人の家だけが特別許可を得て窓6つ分になっているとの説明があった。しばらくしてシェブチュック氏とカーチャさんはリフネに戻るというので、再会を約して別れた。この後クリャチコ氏が昔のカジノの建物を案内してくれた。立派な部屋がいくつもあった。クリャチコ氏は普段は少年宮のマネージャーで教えていないが、依頼があればハリコフ市などに将棋も教えに行くと言っていた。この人にも初心者向けの資料が役に立つだろう。10時半頃20発ほど花火が上がった。
8月25日(月)曇
クリャチコ氏に空港に送って貰う。8時20分頃離陸。約50人乗りの双発。キエフ着9時50分。空港から見える木々は色づき始めていて急速に秋が訪れている気配であった。もともと乗り継ぎが不便で7時間待ちの予定であった。キエフの街に戻っても中途半端なので空港で待つ予定にしていた。ところがモスクワ行きがなんと6時間も遅れ、結局13時間空港で待つ事になってしまった。スナックのテーブルを一つ占拠して、軽食や飲み物を取りながら粘った。その間鈴木さんが持参した詰め将棋と必至問題に取り組んだ。四段とISPS認定初段の差は歴然。
鈴木さんはすぐに解くがこちらは四苦八苦だった。そうこうするうちに隣に座って良いかと女性が現れた。ダブリンの新聞社から取材にやってきて3ヶ月あちこちホームステイをしていた、これからサンクトペテルブルグに向かうと。日本の将棋やISPSの説明をしたら、ダブリンの大学に将棋を紹介しようと言ってくれた。
次に隣にやってきたのはウクライナの女性。スイスのベルン大学でホテルのマネージメントを勉強していると。チェスに興味のある学生に将棋を紹介して欲しいと頼んだ待ちに待って、飛行機に乗ったら、僅か1時10分でモスクワ到着であった。
こうしてウクライナの旅は終わりましたが、多くの友人や可愛い孫が出来ました。また将棋の交流はリフネのシェブチュック氏を中心に考えようというのが二人の結論です。同氏には日本将棋連盟に支部の申請をするよう勧めました。モスクワからの行きの飛行機で日本人一人と会っただけで、後は日本人とまったく会いませんでした。
日本人にとって秘境ともいうべきウクライナに心温まる交流が待っています。今度は皆さんと一緒に大勢で近いうちに是非出かけたいものです。将棋旅日記ロシアの巻はドンキホーテさんにバトンタッチです。
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