フランス将棋の旅2000年(14号,2000.12.25)
昨年から家内と、私の2000年定年退職を機に、フランスとイギリスを旅行したいと話してきた。家内は若いころフランスに音楽留学したときお世話になった人の家族に会い、亡くなった人の墓参りもしたいという。また、日本へ最初にフランス歌曲を紹介された恩師古沢淑子先生が、スイス国境近くの村にご高齢で住んでおられるのでどうしても会っておきたいし、イギリスでは、ダンスの世界選手権大会も観戦したいという。
ともかく日程の忙しい旅になりそうであったが、ガイド役の私にもひそかな楽しみがあった。
昨年10月の上海旅行で同行された鈴木さんと湯川さんから、フランスの将棋愛好家エリック・シェモル氏のことを聞いていたので、昨年暮れ、エリックに手紙を書いて5月にパリの将棋クラブを訪ねたい意向を伝えた。(稲垣巌)
年が開けて早速エリックから親切な返書が届いた。パリには二ヶ所のクラブがあり、月曜と土曜に集まっているので訪ねるときは前もって電話をくれれば待ち合わせて案内するとのことだった。そのほかにも今年2000年にヨーロッパで催される将棋大会の予定や、ヨーロッパ各国の将棋クラブの責任者とE-mailアドレスも2ページにわたって詳しく知らせてくれた。
5月6日にパリに飛び、忙しく日程をこなして5月22日月曜、紹介された将棋クラブに行くべくエリックに電話を入れた。しかし彼は何か落ち着かない感じで自分は行けないからフレデリック・ポティエ氏に電話してくれ、といってそそくさと電話を切った。
後で分かったことだが、彼の奥さんが出産間際でそれどころではなかったのである。
エリックの手紙に両方のクラブの責任者として紹介されていた、フレデリック・ポティエ氏に電話をし、近郊のラ・デファンス駅前、新凱旋門の階段中央で待ち合わせることにした。
フレデリックは感じのよい若者で(エリックと同年の36歳)最初の言葉は“はじめまして”という日本語であった。彼はすでに2回来日していて小樽から松江まで日本各地を旅し、カタコトの日本語も話せる親日家である。
彼の案内で、10分ほど歩いたところに建つ円筒形で迷彩模様の高層アパート群の1棟に入った。
彼はそこの28階に住んでいて、1階集会場の一室を、月曜夜に将棋クラブとして使っていた。小ぢんまりとした部屋には将棋盤が3面用意されていて、先客もすでに2人来ていた。
青野九段の日英対訳の著書二冊をISPSからだと手渡すと感謝された。
フレデリックと3局対戦したが、横歩取り8五飛など最新戦法も指してなかなか序盤に明るい。それもそのはず、日本将棋連盟のパリ支部には、毎月将棋世界が3部送られてきているほか、週刊将棋も購読しているという熱心さには驚くばかり。
インターネットも利用しているそうでUP-to-DATEな情報に事欠いていない。将棋はフレデリックに終盤に緩手が出て私が勝った。
もう1人パリ在住の植村さんと一局指した。この方は、京大将棋部OBで振り飛車党。なかなかの強豪であったがなんとか勝てた。
土曜日に将棋を指せるパリのもう一ヶ所の将棋クラブは、市内メトロのシャトレ駅近くにあるカフェの中だ。
目印は、この店の向かいに建っているサン・ジャックの塔で、高さ52メートルのこの塔はよく目立ち、昔パスカルがこの塔の頂上から気圧の実験をしたことで知られている。
このカフェの奥で土曜の夜、日仏交流の集いがあり、そこにフレデリックは将棋の盤駒を持ってきて、普及につとめている。初心者には四枚落ちくらいから教えていた。
ここでは、フレデリックと同じ三段のギョームと対戦した。彼はニューヨークのアマチュア世界選手権に出場してきたそうだが、1回戦で六段とあたり敗退したという。
将棋は序盤で私が奇略を弄して角頭の一歩をかすめ取りそのまま優位を保って逃げ切った。このカフェには2回通った。
3週間の旅も終わりになり、帰国前夜ラ・デファンスのクラブに3度目の顔を出した。ギョームや日本人の森本さんら4人がすでに対局中で、それを観戦していると、だれかが入室してきた。エリックであった。奥様が無事男児を出産し、ルカと名づけたそうである。
心からおめでとうといって、早速初手合わせをお願いした。さすがにフランスチャンピオンだけあって、エリックは攻めに迫力があり、守りにも受け潰そうとする力があった。
3局とも接戦であったが1勝2敗と負け越した。しかし、会えないと思っていたエリックと最後に対局できたことには大いに満足した。結局この旅行中五夜を将棋に費やし、大きな満足感を得られた。今後も元気な限り「好きな道なら千里も一里」の将棋交流の旅を続けていきたいと願っている。
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