海外普及 今後の期待と課題(28号、2004.6.26)
人に自慢できるような活動はしていないが、一応私も昭和五十年代から海外へ出かけ、海外普及の実態を少しずつ見てきた。そこで私が感じた海外普及の期待と、問題点を書き出してみたいと思う。(九段 青野照市)
私が最初に将棋の普及で海外に行ったのは、昭和五十五年、二十代で日本将棋連盟理事をやっていた時だった。その前年、イギリスのロンドンで将棋大会が開催されることを聞き、では翌年はぜひプロが支援しようということで、淡路六段を誘って渡欧したのだった。
仲介兼同行者は、当時少し前までロンドンに留学していた、宇井秀雄氏(現・編集プロ
ダクション社長)。現地の将棋サークルでファンと知り合い、送別会の時の「いつか必ずプロを連れてくるから」の約束を果たしたのである。
ロンドンに行くと、そこにジョージ・ホッジスという、将棋ファンをはるかに超えた人がいるのに驚いた。彼は英語で入門書を作成したり、隔月に雑誌を発行するだけでなく、古将棋を研究して並べ方と動かし方を表したものを本にし、さらにその盤と駒まで自分で作成していたのだ。駒数が三百五十二枚の『無上泰将棋』の盤駒を、ロンドンで見るとは思わなかった。
彼は、その十数年前にイギリスBBC勤務のレゲットさんの書いた英文の本を読み、急速に将棋に惹かれていったという(この本は東公平氏に戴き、現在私の手元にある)。そしてオランダやパリにまで出向き、将棋の普及をしていた。今日、ヨーロッパで将棋が指されているのも、彼と翻訳者のジョン・フェアべアン氏の功績なしではまず考えられない、といっても過言ではない。
我々の訪問は、大成功だったと思う。ロンドンとパリを訪問し、指導対局はデパートでのデモンストレーションをした結果、現地での普及にはずみがついただけでなく、翌年から国際交流基金の正式な派遣が認められるようになったからである。その昭和五十六年に、交流基金の派遣第一号として、私が渡欧した。ロンドン、エジンバラ(スコットランド)、アムステルダム、ユトレヒト(共にオランダ)の四都市を回ったが、ホッジス氏が「あなたは三カ国(スコットランドは他国の意味)を訪問した」と主張したのが、妙におかしかった。
私はその翌年も行き、さらに三年後に新婚間もない妻を連れて四度目の訪問をしたが、その後はA級に昇ったばかりとか、子供たちが小さかったりで、十年以上海外へ普及に出かけることはなかった。
その間に、あれだけ将棋に熱心だったホッジス氏は、将棋をやめてしまった。理由はいろいろあると思う。貿易商だった商売の方が、うまく行かなかったというのもその一つだ。
しかしあくまで私の想像だが、それ以外の理由も多々あったように思うのだ。まず彼は前述のように、将棋に多大な投資をしていた。従ってそれを回収までいかなくても、少しは戻ってくるような形、立場になりたいと考えたとしても、不思議ではない。
具体的には、将棋連盟が彼をヨーロッパ将棋連盟の会長に任命し、権限とともに、盤駒のような道具は、すべて彼の所から買うような指示を各国に通達すれば、彼は喜んでいつまでも将棋に関わっていたと思う。
しかし実際には、欧州域内で決めるならともかく、将棋連盟が会長を任命することは、国内でもありえない。それはもめ事をつくるだけだからだ。ただし彼には、それぐらいのことはやったという自負があるから、支部を登録したら本部(将棋連盟)とかかわり合いを持ちたい他の国とは、自然と折り合いが悪くなった。
そして決定的なのは多分、竜王戦初の欧州対局がロンドンでなく、フランクフルトに決まったことだろう。無論、新聞社の都合で開催地が決まるから、現地の希望通りにはいかないのだが、普及のためにぜひタイトル戦を呼びたいと思っていた彼にしてみれば、連盟は何も考えてくれていない、と思っても無理はない。この頃、彼が将棋から離れたことを私は知った。
ここまで一人の将棋ファンのことを書いてきたが、単に個人ということでなく、このことから、どうなると海外の支部やファンがしぼんでいくかが見える気がするのである。
そのもっとも大きな要素の一つは、長い間将棋連盟やプロ棋士、また日本との接点がなくなると、必ず支部やサークルは衰退していくということだ。
ひと頃の欧州がまさにそれで、私と時を同じくしてよく訪問していた、室岡、佐藤(康)のコンビも、忙しくなったせいかほとんど行かなくなった頃から、一時衰退していたような気がする。
私がここ数年で三回ほど訪れている北京でさえ、少年宮の李先生が昨年「ここ一〜二年、誰もプロ棋士が来ていません」と言っていた。同じ中国の上海に比べると、北京に来てくれる棋士は少ないと思っているようである。
最近までは、公的派遣も国際交流基金のほかに文化庁の派遣もあり、また当会や棋士のやっている『将棋推進の会』もあって、条件もよくなっているはずだが、やはり中央(将棋連盟)にいる人間が、各国の事情をよく熟知し、弱い国を常にカバーしていくような方策を取らねば、支部がなくなってしまう恐れが十分ある、と考えねばならない。
私自身はこの数年、北京と北欧を軸に多少の活動をしてきた。北京は近い上に、当会のような日本−中国の少年交流をやって頂ける団体があるからまだ良いが、北欧は遠く、なかなか他の人に行ってもらうのは容易でない、と考えているからである。
所詮、個人の活動には限度がある。一度行けば親しくなり、当然「また来てください」
ということになるから、親しくなる国の数をそう増やせないという事情がある。
現在は、アメリカ方面は大野六段、石川六段、野月六段らが毎年行っているようだし、
中国へは所司六段、東南アジアは小林(健)九段という感じだが、それでも足繁く海外へ行く棋士の数は多くない。
もう一つの心配は、あの国は誰が親しいからといって、遠慮する人がいないかということだ。私などはぜひ、遠い国まで出かけていただける人が、一人でも多くなることを望んでいる。
特に昨年訪問したアイスランドなどは、そうそう簡単に行ける国ではないだけに、プロに限らずアマの方でも、訪問してほしいと思っている。アイスランド紀行は、今年の「将棋世界二月号」に写真入りで掲載されたが、大自然が素晴らしい上に、世界で唯一、首都でオーロラの見える国(残念ながら私は見られなかったが)というのを宣伝させて頂く。
距離的な問題がないということでは、当会が昨年から推し進めている韓国との交流は、大いに期待できるものと思う。単に個人を越え、日本将棋連盟と韓国将棋協会との交流ということになれば、一気に進むことが考えられる。特に将棋の指導者を養成するということなら、韓国の方の熱心さが、いい方に向いていく気がしてならない」。
と同時に、各国の主要人物、すなわち将棋を指すのが好きというだけでなく、将棋を広めようとしてくれる人を、第二のホッジズにしてはならないということも、重要な課題のひとつである。
ともあれ海外のファンに対しては、常に期待と希望を日本から発信することが大事である。その意味では、将棋フォーラムが三年に一回程度というのは、海外のファンには残念であろう。
私は理事も経験しているので、実際に世界的なイベントを催すことの難しさも知っているつもりだし、大きい団体(連盟)はどうしても動きが遅いことも、ある程度理解できる。
しかし海外普及を始めて二十年以上たった今、将来的にどういう形で進めていくかのビジョンを、将棋連盟が示す時期に来ているはずである。常に毎年ある派遣を、誰にいかせようかというだけの仕事では、普及とはほどとおいといっても言い過ぎではないであろう。
海外普及に際しては、駒や動きの表記をどうするか、何カ国の入門書を作成すればよいか、ネットをどう活用するか等、まだまだ問題点は山積みだが、そういう意味では、エキスパートが多く在籍する当会に、大いに期待するものである。
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