薔薇の学校再び サンクト・ペテルブルグより(28号、2004.6.26)
泰山鳴動ねずみ十匹
ロシアの古都サンクト・ペテルブルグ市の学校で将棋を教えることになり4月に着任しました。その学校は4年前に「将棋を世界に広める会」の団体ツアーで訪れたことのある第83学校、別名「薔薇の学校」です。1年生から11年生まで合計丁度千人が勉強しています。(鈴木良尚)
ロシア人の将棋の先生が辞めて1年、新しい日本人の先生が来るというので、大袈裟に言うと学校中が、ショーギ、ショーギ、の一色だったそうです。勿論、課外授業であってクラブ活動のようなものですが、校長先生とは以前にお会いした時、受講希望者78人と言う数字を聞かされてビックリ仰天、野球部やサッカー部でもないのに監督一人でどうやって教えるのか悩みました。しかも5年生から8年生までと区切ってこの結果だそうです。
大部分は将棋について何も知らない未経験者で少数が経験者とのこと、これはクラスを分けないことにはどうにも出来ません。 初日学校に出勤してかつて見覚えのある講堂に入ると大勢の生徒が椅子に座って待っていました。そこで挨拶のあとすぐさま授業開始です。とりあえず、将棋を指せる人、チェスなら指せる人、両方出来ない人、に分けて手を挙げさせたら全数60人で三分の一はチェスが出来ると言い、将棋経験者は3人だけでした。日本からビニールの大盤を持って行ったので、とりあえずその3人を前に出させて駒を並べさせたあと駒の名前を覚えてもらい、一旦崩して次に5人ずつ前に出させて駒を並べてもらうと皆嬉々としてやっていました。
ここでまた人気上昇したのかその日の夜、更に希望者が増え101名になったという知らせが入りました。そこで経験者3人には授業中の前半にリーグ戦をやらせ、その間初心者に講義、後半は初心者には宿題を出して帰宅させ、経験者だけに少し手筋など教えると言う計画をたてました。
2回目の授業はこれで行こうと決めて翌週学校に着いてから講堂に行くと誰も居ません。どこかしらとウロウロしていると、こちらですと案内してくれた所が普通の教室で生徒が12名待っていました。あれっ、どうなっちゃったの?、と不審に思ったわけですが、とにかくやることだけはやって、あとから先生に聞いてみたら説明をしてくれました。実は学校側としても課外授業の人数が片寄ると困るのだそうで(もっともです)、他に、器楽、合唱、劇、ダンス、絵画、生花、折り紙等々の科目があり強制的に振り分けて人数調整をしたのだそうです。そして将棋は何人くらいが教えるのに適当か、との御下問がありました。そこで、20人位までと言わせて貰い、やれやれ助かったと感じた次第です。
実は第1回目の時、次回までに厚紙で各自盤駒を家で作ってくるよう、黒板に絵を書いて説明したのですが、殆どの生徒が怠けて作って来なかったのでそれも選考の基準にしたもようです。
お陰で残った生徒は皆熱心でやりやすくなりました。よかったー。なお、3回目の授業は10人でした。
タラソフ先生
「薔薇の学校」では400人の生徒が日本語の科目を選択しているそうです。でも、低学年ではもっぱら歌を歌ったり折り紙を折ったり、楽しみながら日本語を学ぶ事に重点を置いているので、こんにちわ、とか、さよなら、は言えても日本語は全く通じません。高学年になってようやく一口話とか劇とかを習いますが、どうしても一つ覚えの域を越えることはむつかしく、総合的会話はとても出来ません。そういう意味では日本語学校なら楽が出来る、と思っていた部分がオジャンになっていました。
同じように英語なら通じるだろうと言う考えも甘い考えで、第一、校長先生が英語不得意ときて、やたらドイツ語で話しかけて来るのには参りました。ドイツ語が好きなんだそうです(一寸オタクみたい)。家でも子供にドイツ語を教えていました。この時ほどドイツ滞在5年間の昔を幸運に感じたことはありません。
ロシア語だけでたたみかけて来られたら、私の方が、こんちわ、ありがと、いくらですか?、のレベルですから立ち往生してしまうところでした。まあ、どっちにしても限りなくチンプンカンプンに近いということには、あまり変わりはありませんけど。副校長先生も日本語教師と聞いていたのに全く日本語では話しかけてきませんでした。
そういう中で助けの神が現われました。タラソフ先生という日本語の先生が一緒に授業に立ち会ってくれるというのです。助かったー、これでパントマイムをしないでよくなったと喜んでいたら、この先生、将棋はおろかチェスもまったく知らないというのです。何か王様を「とりこ」にするんですか?、と仰せられる。でも、ここで贅沢は言えません。まずこの先生に将棋を覚えてもらうこととし、もっていった初心者用の教材を全部渡して勉強してもらうことにしました。
それにしてもこの先生、私の日本語を正確なニュアンスで本当に訳してくれているのかしら、不安です。というのは自分の持っている日本の品物の説明書を持参して来て読んで教えてくれと言ってくるのです。どうも漢字混じりの文章は苦手みたいでした。となると、漢字で表現する熟語をしゃべった時、正しく訳して言ってくれているのかどうかわかりません。
そういえば時々「エッ」と聞き返してきます。この先生に日本語の試験をしようかと思いましたが、そんな失礼なことは出来ません。まあいいや、国際会議で通訳してもらうわけではないから、これでいいことにしようっと。
どんな所に住んでるの?
次に将棋を離れてロシアでの生活をご紹介しましょう。市民はすべて例外なく大きな高層建築の集合住宅に住んでいます。道路沿いの場合1階が何かの店や事務所になっている所もあり、2階以上が住居で古い建物で5階建て新しい建物で15階位というところでしょうか。日本の若葉台とか高島平とかの大アパート群を想像して頂けば良いでしょう。冬が寒いため集中暖房をする必要があるからです。熱水供給センターが市内を区切って沢山あるそうですが、何年か前に一度マイナス35度の寒波襲来を受けて地下の熱水供給管が凍りつき、震え上がった住民が一斉に電気ストーブを利用したため、今度は電気施設が過熱して停電となり大変だったそうです。
でもそういうことはニューヨーク大停電のように滅多に起こるわけでもなく、一軒家を個々に暖房しなくて済み家の中では下着で居られるくらい暖かいのは日本の木造住宅の冬の寒さに比べて格段に暮らし易いと言えるでしょう。緑の公園も沢山あって散歩などリラックスするには好適な環境です。
何を食べてるの?
普通の日本人が海外に居住して一番困るのが食事が異なることです。ある日の献立;茹でジャガイモに豚肉ソテー、生野菜として胡瓜、トマト、赤ピーマン、それに硬い黒パン、チーズ、紅茶、といったところで別の日は、ビーフ野菜スープ(肉片、ジャガイモ、人参、キャベツ、玉葱、香草入り)、鶏のササ身グリルに刻みサラダ(トマト、胡瓜、白菜、赤ピーマン)のタップリ付け合せ、白パンバターそれに紅茶、更に別の日は、フレンチフライポテトにカツレツ、ということもあり、鶏の丸焼き(家族で切り分け)もあります。
これらは私が自分の住居に入る前に寄宿したイゴールさんの家庭の献立ですが、要は主食が肉とジャガイモです。卵もジャガイモとかキャベツとかと一緒にして卵焼きにして食べます。当地の胡瓜はズングリした形ですが味は同じでした。なお、米を食べないとダメな人は当地で生きては行けません。イゴールさんは大の日本通で小さな日立製の炊飯器を持っており、私のためにご飯を炊いてくれました。そして驚いたことに生卵をご飯に掛けそれに醤油を掛けてかき混ぜて食べるのです。
生卵を食べる外国人を初めて見ました。でもその卵の黄身は気味が悪いくらい(しゃれではありません)カロチンの橙色が全く無いことが多く、うすーい黄色そのものなのでとても生で食べる気がしませんでした。白身も日本の新しい卵のような弾力性が無くてドロドロと流れるようでした。米はロシア製のクラスノダルスキーという銘柄が丸型で日本の米と形が似ています。醤油は小さな日本用品店でキッコーマン1リットル入りが294ルーブル(約1200円)で買えます。たとえ米が炊けても日本的おかずが全く見当らないところが問題で私はご飯に醤油を掛けて食べました。でもボルシチを作ってもらった時は飛び上がるほどおいしく、ロシアに来たらやはりロシア料理を食べるのが一番ですね。
カラシニコフと用心棒
イゴールさんの住むアパートの入り口の扉は重い鉄板で厳重に閉ざされています。そしてその扉には10ヶのポッチが付けられてあり、特定の3つを同時に押せば扉が開けられるようになっています。その扉を利用する20家族がその番号を知っているわけで外部からの侵入者に備えています。中に入ってからは20家族の20の玄関扉が1階当たり4つずつあるわけですが、それもまたすべて鉄板か厚い木で出来ています。まるで要塞みたいに感じました。
特にイゴールさんの家の玄関扉は厚い黒い鉄板製で銃弾を打ち込まれても大丈夫のように出来ていました。そして更にもう一枚の木製の扉がそのすぐ後ろにありつまり二重扉なのです。でもそんなことで驚いてはいけません。カラシニコフも備えられていたのです。ここ10年は必要なくなったそうですが、生まれて初めてホンモノのカラシニコフを持たせてもらいました。ずっしりと重く感じました。なお、アパート全体の住所は建物に記してありますが、表札というものがどこにも無いので、どの扉の向こうに何と言う人が住んでいるのか、全くわかりません。これもよそ者を寄せ付けないための用心には役立っています。
それから、イゴールさんが事務所を借りている街中のビルも、表の扉を入ると用心棒が一人待っていましたし、日本人用のお土産店の入っているビルにも表に一人と中に一人と計二人が立っていました。
また、郊外にある家庭電器製品、じゅうたん、衛生陶器、建築用タイル、カーテン生地などを売っている建物にも、制服が一人と店員を兼ねているらしい屈強なわかものが一人、警戒しています。この辺は皆物盗りのための見張りなんでしょうか、あまり気持ちの良いものではありません。勿論、私の通っている学校も玄関の扉の前には、扉に近づけないように錠付きの丈夫な金網の大きな囲いがあり、扉を入った所には一見優しそうには見えるものの、あまり愛想の良くない制服のガードマンが頑張っています(他に入り口はありません)。
最近出来たハイカラなマクドナルドの店には店員とは異なる制服を着た女性がそれとなく周囲を見廻していた姿が気になりました。写真を撮ろうと思ったのですが、こわいのでやめました。
温度と湿度
サンクト・ペテルブルグ市の位置する地球上の緯度は世界地図を見て頂ければお分かりのように北緯60度です。日本の北の方で言うと樺太を越えてはるかカムチャッカ半島の根元あたりに相当します。ですから、かなり寒い気候なわけですが、土地の人に言わせても5月はまだ寒いと言っていました。
5月の平均気温11度、但し、5月に限らず温度のフレが大きいのが特徴です。ある日20度まで上がったと思うと突然次の日に2度まで下がるという事も起こります。従って、人々はその日に応じてコートを着たり半袖になったり、こまめに着替えないと風邪をひきやすくなります。でも家の中にいるといつも暖かいので、今日は外が寒いのか暖かいのかわかりません。
そこで3チャンネルのタウンテレビをつけると24時間いつも画面右下に外気温が表示されることになっています。それを見れば外出用の服装が選べます。但し、月曜の午前中はそれが表示されないのですが、理由はわかりませんでした。
それから、これは北ヨーロッパ全体に言えることですが、乾燥性気候なのでいつも日本に比べて湿度が低いのです。梅雨のあの生暖かいじめじめした季節を思うと天国のような晴朗さです。洗濯物も家の中のドアの上の方に引っ掛けて置くと直ぐ乾いてしまいます。タオルや布巾もその辺に放っぽっておくと知らないうちに乾いています。台所で洗ったお皿類も直ぐ乾くので台所用皿乾燥機が売れない事は確かです。喉や鼻も乾燥してくるのが実感として感じられますが、慣れているのか誰もうがいなどしているところを見た事がありません。土地の人でも気圧が急に低下した時には、頭痛がするとか身体の調子が悪くなって学校を休むことがよくあります。
コマルは困る
4月30日の夜ビックリする事が起こりました。部屋の電気を消してベッドに横たわり、しばらくすると耳元でブーンという蚊の羽音がするのです。急いで自分の耳をピシャリと叩いて、あれは本当に蚊の音だったんだろうか、と自分の耳を疑いました。まさか、まだこんな寒いという季節に部屋の中に蚊が入って来るなんて考えられません。外は昼間でもせいぜい10度です。
もしかしたら何かの幻聴だったのかも知れない。年をとるとそんな事が無いとは言えないと考え、しばらく耳を澄ましてジッ
としていると、再び耳元でブーンという音。これは確実に蚊です。日本の夏の寝入りばなによく悩まされたあの懐かしい嫌な音。 再び耳の辺りをピシャリとやって果たして戦果が挙ったかどうか。こんな北国の寒い季節に蚊に悩まされて眠る事が出来ないなんて、寝耳に水、いや寝耳に蚊です。そこで電気を付けて再び現われるのを待つ事としました。
しかし、敵は待ち伏せを悟ってなかなか出て来ません。念のためにベッドの下とか椅子の下辺りを捜索してみましたが、発見するのは困難でした。あきらめてうつ伏せになってしばらく待っていると、アッ、来た! でも、うつ伏せだからよく見えません。闇雲に耳の辺りを一発叩いてパッと起き上がったのですが、動体視力の衰えた年寄りの目では敵がどこにいるのかわかりません。これはトラブルです。でも家主を叩き起こすのも気が引けるので,ここは一転あきらめることにしました。一回だけタップリ血を吸わせてやれば何回も襲撃には来ない筈です。もう眠らせてくれー。疲れて寝てしまいました。
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