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将棋以外の「漢字」を教わったヨ!(33号,9月17日発行)

・・・・ウクライナ将棋紀行の一エピソード・・・・・

 氷のとけはじめ

 五年前ペテルブルグを訪ねたときは、私にとって初めてのロシアであり、主訪問先の「バラの学校」での子どもたちとの交流も、和やかな雰囲気に包まれたものとはいえ、まだカミシモ着用を脱するまでにはいたらなかった。 (入江建久

 今回のウクライナ訪問に際しても、多少の気安さを覚えながらも、旧ソ連邦の一国として、礼を失することのないよう多少の緊張感を持続させていたことは確かである。
 モスクワで一泊後、首都キエフに飛び、主訪問地のロブノに移動する前の一日、ウクライナの広大な空と土地と水、とくにドニエプル川の舟遊びが私のウクライナの子供観を一変させたのであった。
 遊覧船にはわれわれ一行のほか、大勢の観光客がいたが、半数近くは学期末の遠足を楽しむ小学校高学年くらいの学童たちが占めていた。
 ロシア語をほとんど知らない私は、英語で挨拶を言ったとこら、何人かからの応答があり、明るい笑顔を頼りにカタコト会話が始まった。横文字圏であればどの国でも英語は全く国際語である。小学生でも雰囲気だけで分るらしい。
 船の中でジャズがけたたましく鳴り出したのを機に、彼らの一人を誘ってマンボのステップを教え始めたところ、何人かが反応を示し、順次勝手なダンスを楽しんだ。ついに妙齢の娘さんまでにっこり加わってくれたのは、まさにエビ鯛の効果であった。
 子どもたちとの船からの別れは、けたたましい歓声の中であった。

 入江はイリヤー

 さてロブノの少年宮の二日間・・・・
 大人同士のタイム制の真剣勝負の面白さはもちろんであったが、驚くほどの大勢、たぶん総勢百人は超えていたように思われる、ドングリのような可愛い小中学生を相手にしての多面指し、はじめ二人から最高六人まで、その殆どは六枚、八枚落ちという手合いであり、初心者によく見られるウロ(駒がうろうろ動く)飛車、ウロ角がやはり多かったが、それはそれで結構楽しめるものであった。 しかし手合い違いとはいえ、勝負数そのものによる疲労感は初めて味わうものであった。そして通常当方がプロから学ぶときの五、六人相手の多面指しをものともしないプロの先生方の頭脳構造の違いを改めて思い知った次第である。
 彼らになれ始めてから、当方のサインを(はじめローマ字で、後に漢字で)書いてやるようにしたところ、俄然彼らは将棋の駒以外にもある漢字の魅力に取り付かれ、われわれ日本人の名前ばかりか彼ら自身の姓名のアテ漢字までせびり始めるようになって来た。書いてもらっては、彼我の呼び名を得意になって大声で繰り返し、ますますサイン、サインと日本人一同がせがまれるようになって皆さんにご迷惑をおかけする羽目に陥らせた。
 さて最後を締めくくる表彰式。
 これも主催者の配慮で、成績優秀者はもとより、参加者全員が表彰に与り、また表彰状の授与者の位置に我々日本人各人が交代で立つよう仕向けられていた。授与者にせよ、被授与者にせよ、日本人の名が呼ばれるたびに子どもたちは黄色い声で「漢字の日本語」を反復し、名前と将棋を結びつける「漢字」の魅力を謳うのであった。
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   参加者全員がひとりずつ表彰された

 名前の大合唱は私にはみな同じ大きさに聞こえたが、皆さんはイリヤーの声が最大だったと言ってくださった。
 表彰式の最中まで騒々しい雰囲気にしてしまい、嬉しいようなご迷惑だったような、いまも感謝のうちにも複雑な気持ちである。

指導者の努力に脱帽

 世話役・指導者の献身的努力、それを可能にした日本将棋の魅力―これはいうまでもないことであるが、最後に私が気付いた二つのことに言及させていただきたい。
 一つは、「ウロ飛車」の子どもたちの殆どすべてが「と金」づくりに精を出していたこと。これには指導者の並々ならぬ指導カリキュラムをうかがい知る思いであった。私の棋歴からみて「と金」づくりを意識するようになったのは、古希にもなる馬齢の上の近々二〇年のことである。彼らがこのまま指導を受ければ、遠からず初段を獲得できるのではないかと思われる。
 その二は、なんとすべての子どもたちが立派に細かくランク付けされていた事実である。世話役の行き届いた愛情と努力は全く敬服の限りである。
 指導者の皆さんに、そしてウクライナの子どもたちの未来に乾杯!

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