フランス留学中の将棋体験 - 会員の篠原学さんの寄稿
フランスに昨年の10月から留学していた篠原さんに、滞在中の将棋体験について寄稿いただきました。
はじめまして、「将棋を世界に広める会」会員の篠原学です。
2010年10月から翌2011年10月にかけてフランスに留学し、パリに滞在しました。その一年間での現地の将棋ファンとの交流について、ここでは主に書かせていただきます。
手前の机でこちら向きに対局しているのが篠原さん
不安にかられながら例会に初参加
パリ将棋協会のことから始めましょう。私がパリ将棋協会という組織の存在を知ったのは、2010年の10月半ば、新しい生活を始めてまだ間もない頃でした。ひとまず、毎週水曜日の夕方に、パリ郊外リュエイユ・マルメゾン市で行われているという集会に出席してみることにしたのですが、駅を降りてから会場までかなりの距離があり、閑散とした秋の夜道を、Google Mapを確認しつつ不安な気持ちで歩いたことを、よく覚えています。何度か道に迷った挙句、その日、ようやく辿りついた会場にはわずかに3人の先客があるのみでしたが、うち2人は盤を挟んで真剣な表情で向き合っており、もうひとりはその対局を脇からそっと眺めていました。その光景は、私にとってきわめて馴染み深いものでした。
ほっとして立ち尽くしていると、対局者のひとりがすぐに私に気づき、立ち上がって声をかけてくれました。対局中の険しい表情とはうってかわって穏やかな笑みを浮かべるその紳士こそ、パリ将棋協会会長のニコラ・ヴィエル氏でした。予告なしの最初の訪問で会長の面識を得たのは、のちのち私が協会に溶け込んでいくことができた成り行きを思えば、非常に幸運なことでした。ヴィエル氏は、今は対局中なのでお構いできないけれど、ゆっくりしていかれるとよいでしょう、と言われ、対局に戻っていこうとされましたが、そのときふと思い出したように、脇に立って対局を眺めていた背の高い青年を示して、彼と指してみるのもよいでしょう、と言われました。私は彼とも握手を交わし、さっそく対局を開始しました。こうして始まった私のフランスでの第一号局は相矢倉に進みましたが、一方的に攻め倒され、私の完敗に終わりました。当時、私はアマチュア二段程度の棋力と自認していたのですが、目の前の青年とはあきらかに角一枚以上の差があるように思われ、フランスのレベルの高さを実感することになりました。
彼が2010年度のヨーロッパ選手権者、ジャン・フォルタン氏であると知ったのは、それから一週間後の集会でのことでした。その後、何度か対局の機会を得ましたが、ついに一度も勝つことができませんでした。終盤にかならず攻防兼備の手が用意されていて、こちらが調子よく攻めていたはずが、いつのまにかするりと体を入れ替えられている――彼との対局では、そういった展開に将棋の奥深さを感じることが多かったように思います。
例会に参加して多くの知己を得、刺激を受ける
こうして、私は毎週水曜日、パリ将棋協会の集会に顔を出すようになりました。初日こそ少人数でしたが、毎回10人前後の出席者があり、ほどなくして、私は多くの知己を得ることができました。そのひとりひとりが個性的で、語り尽くせぬ人間的魅力に溢れていましたが、将棋への情熱は――言うまでもなく――皆が共有していました。日本語以外の棋書がけっして多くない現状で努力を重ね、棋力を高めていこうとする海外の将棋ファンの姿を目の当たりにして、十年一日の私は頭が下がる思いでした。今年10月には、ねこまど社から『将棋・ひと目の定跡』(週刊将棋編、マイナビBooks)の英訳版Joseki at a Glanceが出版されましたが、これを嚆矢として、今後も良質の棋書が海外の将棋ファンのもとに届けられることを、彼らの友人として願っています。
集会では私自身、大きな刺激を受けました。可能ならお世話になった方をひとりずつご紹介したいところですが、とりわけ、ヨーロッパの将棋界をリードしてこられた強豪エリック・シェイモル氏には、早指しの練習将棋を何番も指していただきました。中盤からの一気呵成の攻めが印象的で、勝負における決断力の大切さを教わりました。集会のあと、リュエイユ・マルメゾンの駅まで車で送ってもらうことが何度かあったのですが、あるとき別れ際に、一言「エリックと呼んでもらっていいから」と言ってくれたことを、そのとき感じた嬉しさともども、思い出します。
パリ国際大学都市・日本館に将棋部を創設、合宿も行う
滞在中の将棋に関わる活動のもう一本の柱が、パリ国際大学都市・日本館における将棋部の創設でした。日本館は、日本人学生および研究者のための寮であり、入居者の中には将棋を趣味とする学生・研究者も相当数います。当初はそうした者同士が個別の機会に将棋を指していたのですが、日本館では折しも2010年2月に「将棋とチェスの夕べ」が催されたばかりで、継続的な普及促進の一助となれば……との声もあり、正式に将棋部を発足させることとなりました。
とはいえ、一学生にできることには限界があります。日本館将棋部の活動も、非常の多くの方々のご理解とご協力に支えられてきました。中でも2011年4月、寺尾仁・日本館館長の全面的なお力添えを得て、国際大学都市の文化交流事業の一環として花見将棋を企画させていただいたのは、たいへん光栄なことでした。東日本大震災を受けて、国内は花見等宴席の自粛を求める趨勢にあったようですが、そんなときだからこそ、ヨーロッパの人々に日本のすばらしい文化を見てもらいたい、という思いがありました。その考えに共鳴して、盤・駒10セットを寄贈してくださったフランス将棋連盟・パリ将棋協会には、この場をお借りして、あらためて、心からの感謝をお伝えしたいと思います。当日は、国際大学都市の各国の居住者をはじめ、多くの方に将棋を体験していただくことができ、花見将棋は大盛況のうちに幕を下ろしました。はじめて将棋の駒に触れたという年配のフランス人の方から、私は日本の復興を信じています、という言葉をかけていただいたことが、忘れられない一日でした。
日本館将棋部で一年間活動をともにした部員たちは、今では皆、かけがえのない友人です。2011年6月にル・アーヴル~エトルタで行った将棋合宿は、途中から観光が主目的となり、何部の合宿なのかわからないほど全員真っ黒に日焼けしてしまいましたが(笑)、よい思い出になりました。
ゲームの祭典で強い中学生に出会う
カンヌでのことにも触れておきたいと思います。2011年2月、毎年カンヌで行われている「ゲームの祭典」に見学に訪れたときのことです。ご存知のとおり、カンヌは美しい砂浜を持つ南フランス有数のリゾート地で、私もフランス滞在中に一度は訪れてみたいと憧れていた都市ですが、その砂浜を、市街地を見下ろす丘に向かって歩いて行く途中、地中海に面した広場にフェスティバルの会場はありました。「ゲームの祭典」を謳っている通り、世界中からさまざまなゲームが出展され、ボードゲームだけでも数え切れないほどのブースが所狭しと立ち並んでいました。将棋のブースは囲碁やオセロのそれと並んで設置されていましたが、どのブースでも日本語が話されているのは聞かれず、現地の人々で賑わっているようでした。そんなわけで、ふだんは目立たない私が、日本人だからという理由で妙に目立ってしまい、いろいろな人から声をかけられたのですが、このとき知り合ったフランスの将棋ファンとは、のちにリュエイユ・マルメゾンで催される国際将棋フォーラムで再会し、あらためて友誼を結ぶことになります。
私も何局か指したのですが、とても強い中学生がいるというので、対局させてもらいました。結果は私の三連敗で、ああ、たしかにこれは「とても強い」、と感じたことを覚えています。本格的な居飛車党で、とくに戦いが始まる直前の間合いを測るのが抜群にうまい印象を受けました。今にして思えば、彼ともかなりの棋力の差があったと思います。感想戦のあと、将棋を始めてまだ一年にしかならないと聞かされ、打ちのめされた私は、夕食にカンヌのおいしい魚料理を食べて、早めに寝ることにしました。
彼の名はアドリアン君。前年、2010年の「ゲームの祭典」に訪れていた北尾まどか先生のレクチャーを受け、またたく間に上達した「将棋の子」です。先頃行われた国際将棋フォーラムでも、オープン・トーナメントで2位入賞を果たしました。このトーナメントでは私の戦績が今ひとつで、彼と当たるところまで進めなかったことが残念でした。
1年間でかけがえのない棋友ができました
フランスでは新年度の開始は秋ですから、夏になると、学生は試験の準備や学位論文の執筆で非常に忙しくなります。私自身も学業と将棋部の活動を両立させることができず、7月頃から部は休止状態、週1回のパリ将棋協会主催の集会へも足を運ぶことができなくなってしまいました。集会に「復帰」できたのは、秋の気配がすぐそこまで押し寄せていた9月半ばのことで、その時点ではすでに11月の帰国が決まっていましたから、もう数えるほどしか皆と顔を合わせることもないのだと思うと、私の胸にも寂しさがこみ上げてきました。ところが、その日私は、協会から思いもよらぬプレゼントをもらうことになったのです。帰国する私のために、お別れトーナメントを開いてくれるというのです。
こうして、去る10月8日、日本館大広間でトーナメントが行われ、パリ将棋協会と日本館将棋部のメンバーを中心に、15名ほどの参加者がありました。また、京大将棋部のOBで、フランスでの将棋の普及に多大な貢献をされてきた植村嘉之氏が観覧にいらしてくださったのも、私の身に余ることでした。せっかくこうして多くの方に集まっていただいたのだから、自分なりに納得のいく将棋を指そう、と私は心に誓いました。その思いが実を結んだのか、私は苦しい将棋を四番勝ち抜き、とうとう優勝してしまったのです。口の悪い日本人の友人からは「篠原がこんなふうに『主役を張れる』機会はもう二度とないんじゃない?」と冗談交じりに言われる始末。私は苦笑しつつ、でも、もしかしたら本当にそうかもしれないな、と思うのでした。
表彰式では、1位の景品と一緒に一枚の封筒を渡されました。封を開けてみると、中には協会の仲間たちからの寄せ書きが入っていました。これには言葉がありませんでした。
さきほども述べたように、国際将棋フォーラムでの私の戦績はかならずしも芳しいものではありませんでした。しかしこのときは、勝ち負け以上に、将棋の対局を通じて世界中の将棋ファンと交流できることの喜びを、強く感じました。場合によっては共通の言語を持たない相手とも、盤を挟んで交互に駒を動かしていくことで、言語に拠らないコミュニケーションが成立する。将棋の魅力、その不思議を、あらためて実感したのです。もちろん、負けたあとには人並みに悔しい思いをし、沸騰する頭を醒ますために、秋風の吹きつける屋外に何度も出ていくことになったのですが……
そうやって会場の外を心の晴れるまで歩き回ったあと、気を取り直して対局室に戻ってくると、対局を終えたアドリアン君が「調子はどう?」と声をかけてくる、という一幕がありました。「まずまずだけど、君とは当たれそうにないな」と私は答えました。彼はそのとき、熾烈な優勝争いの真っ直中にいたのです。肩を竦めてみせた私に、彼はとても残念そうな顔をして、それでも「まだ対局は残ってるよ」と励ましてくれました。私は彼がそれほど雄弁な表情で気持ちを表してくれたことにちょっとした感慨を覚えながら、短く「ありがとう」と言いました。すると、アドリアン君も少し恥ずかしくなったのか、「それにしてもManabuはフランス語が上手になったねぇ、半年前カンヌで会ったときとくらべて」とそれまでとは全然違うことを言い出すのです。私はその唐突な「賛辞」を、帰国する年長の友人に贈られた彼からの餞の言葉として、ありがたく受け取ることにしました。数日前にはエリック・シェイモル氏が、それとは正反対のことを、やはり餞の言葉として、私に伝えてくれていたのです。「いや、Manabuはまだフランス語が自由に話せないから、もう少しパリに残るものだとばかり思っていたけどね」
こうして、朝から晩まで将棋を指した四日間は、私にとっては、一年間暮らしたフランスにきちんとさよならを告げるための四日間になりました。もちろん、再会・再戦を期しての別れです。フランス将棋連盟のファビアン・オスモン会長をはじめとする、フランス各地の将棋ファンたちと固い握手を交わし、私は国際将棋フォーラムが幕を下ろしたその翌日、日本への帰路に就いたのでした。この国際将棋フォーラムでは、畠山成幸先生に指導していただいたこと、森内俊之名人と写真を撮らせていただいたことなど、本当に価値ある「宝物」を頂戴しましたが、あの四日間で経験したことの中に、今後の私が拠って立つべき土台を作るものがあるとすれば、それは、私自身があのとき指した将棋を措いて他になく、その一局一局が一生の財産であると感じています。
とりとめのない文章になってしまいました。冷静な目で読み返すと、個人的な思い入れめいたものも強く感じられ、これをそのまま掲載していただくことにためらいがない、とは言えませんが、私の体験を一例として、フランスにおける普及の状況を多少なりとも具体的にご想像いただけたとしたら、これにまさる喜びはありません。私自身は、この体験を通じて、普及における「将棋を指す」ことの重要さを再認識しました。言葉が通じなくとも、将棋を指すことで会話は成立する。そこから、交流が始まるのだと実感しました。
ここまでお付き合いいただき、どうもありがとうございました。
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